国道特34号
起点 ~奈川縣横須賀市
小川町
終点 ~奈川縣横須賀市
八幡久里濱町
延長 9.5km
制定日 昭和16年1月10日
改正履歴 なし
全体図 Download : MR-34.trk (トラックファイル)
旧国道特34号
横須賀から久里浜へと続く現在の国道134号,この道がかつては軍事道路であった.そのことを知る人はいないのではないだろうかと思うほどに日夜を問わず車の往来の流れがある.国道134号は紛れもなく生活に不可欠な道となった.

久里浜に導かれる道は戦前の昭和16年1月10日になって国道に指定され,「国道特34号」と名づけられた軍用の道であった.終点は「八幡久里濱町」.現在の久里浜フェリーターミナル付近の一帯を指す.

このため,国道134号=国道特34号ではなく,正確には現在の久里浜駅から国道134号を分かれて更にフェリーターミナル方面へ向かうルートまでが当時の国道であったことになる.

久里浜駅からフェリーターミナルへと向かう道にも幾つかのルートがあるが,国道特34号は,現在の国道134号はをまたいで,そのまま平作川に沿って直進する道が軍事国道であったようだ.

その先には旧海軍通信学校があった.この国道指定と前後して田浦から久里浜へ移転されたものであるが,現在の陸上自衛隊・久里浜駐屯地の前身の組織であり,かつての国道特34号が,lこの通信学校と接続されることで久里浜での道の意義も見出せそうだ.

海軍通信学校は昭和5年に発足した日本における通信専門部隊の養成学校となった.設立当初は横須賀・田浦に校舎を構えた.しかし,たった9年を経た昭和14年に移転することになる.国道特34号は通信学校と横須賀司令部とを連絡路として繋がれる道となったと考えるのだ妥当であろう.

また,海軍通信学校から先に進んだ平作川の河口には「開国橋」が架けられている.この橋は昭和4年に千代ヶ崎と千駄ヶ崎に備えられた陸軍の砲台の連絡路として建設されたものであった.従って,国道特34号は上記の海軍通信学校にとどまらず,そのまま南下を続け,この開国橋を眺めつつ久里浜港方面へと進路を変えていったことにもなる.

旧国道特34号 日の出橋付近 (昭和30年代)
国道特34号も旧版地形図で時代を遡ってみると,昭和初期には存在していなかった道であることはすぐにわかる.当時の地形図で表記される限りでは幅員1m以下の点線表記の線すらも記されていない荒涼とした原野となっている.横須賀から久里浜までの唯一の道路といえば沿岸部を走る県道(横須賀浦賀線+浦賀三崎線)のみで,これもか弱いほどのラインでたどたどしいものとなっている.

明らかに国道特34号は横須賀から久里浜までのショートカットを目的として新規に開削されたことになるが,神奈川県史によれば,工事の竣工は昭和18年とされ,国道指定から換算すれば2年にも満たない短い期間で整備された道となる.

この新設された道は確かに終戦後に測量されて作成されたAMSの地図にも綺麗に描かれている.横須賀という地区の恩恵もあろう.後期に指定された軍事国道の中でも珍しいぐらいに戦時下において完成した数少ない国道のうちの一つだ.

Tokyo City Plans 1:12,500 (Sheet 21 - Uraga)
U.S. Army Map Service, 1945-1946


その他にも,この久里浜地区の一帯には,当時は海軍軍需部の弾薬庫があった.戦後アメリカに接取されたが,昭和47年に返還.その一部が、久里浜テクノパーク として整備されて,昭和57年に日本ビクター(株)が工場が建設されている.

通信という観点では,このビクターも高柳健次郎が世界で初めてブラウン管式テレビを誕生させた老舗でもある.今では久里浜は一大通信地帯となっている.

【参考】
横須賀市史 横須賀市史編纂委員会,横須賀市役所,1957
横須賀市史(別巻 年表) 横須賀市編,1988 
久里浜村誌 久里浜青年会,1917
郷土の歴史・久里浜港 久里浜地域文化振興懇話会発行,1999
御署名原本・昭和五年・勅令第一〇四号・海軍通信学校令 レファレンスコード A03021773700
海軍通信学校開校式施行の件 公文備考 昭和5年,レファレンスコード C05021397400

[2008.01.22 作成]