国道103号
起点 青森県青森市
終点 秋田県大館市
延長 133.6 km

重要な経過地 青森県上北郡十和田湖町 秋田県鹿角郡小坂町 鹿角市

指定区間 なし

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八甲田山:第五連隊・雪中行軍の道

旧青森第五連隊跡(現県立青森高校)
県内でも屈指の進学校を誇る県立青森高校は国道103号を青森方面から進み,東北本線の陸橋を渡る手前にて左に折れ500m地点にある.

この校門と門をくぐった目の前にある楓,赤松などの植え込みは,旧青森歩兵第五連隊の屯営跡の名残とされる.

明治35(1902)年の第五連隊の八甲田山雪中行軍と遭難については小説,映画などによって明治の惨劇として広く知られている.

その代表作には山岳小説家として数多くの秀作を残す新田次郎氏による『八甲田山死の彷徨』がある.

この小説では登場人物の姓名は類推できる範囲で変更されているものの,背景やあらすじに至っては史実を忠実に再現し,優れた記録文学として名を残す.

人間の行動には必ずその動機となるべき理由が隠されてり,この厳冬期における雪中行軍も当時にして必要と考えられて遂行された.

日露戦争を前提とした寒冷地研究.その大きな背景は『八甲田山死の彷徨』の冒頭部にも第八師団参謀長「中林大佐」の口を借りて述べられている.

一つにはロシア軍による津軽海峡と陸奥湾の封鎖,および艦砲射撃による鉄道,道路の破壊という有事を想定した場合の青森を頂点として八甲田山を中心とした青森,弘前および三本木,八戸を結ぶ三角形の連絡路を必要とすること.そしてもう一つにシベリアおよび華北地方での戦闘を想定した寒冷装備.寒冷戦闘の研究とされた.

特に,寒冷装備の不足にあっては7年前の日清戦争における遼東半島の戦闘において,約4000人が凍傷によって戦闘不能となった例があり,日露戦の場合は,これより以北での戦闘が行われる可能性が高いことからも,現状での装備では過去の二の舞となる状況が考えられた.

第八師団より命を受けた神成文吉大尉率いる第五連隊は,一個中隊編成210名で青森より田茂木野を経て小峠-大峠-田代-増(鱒)沢-三本木間までの約50kmを行軍する計画を立案.現在では青森県道40号がほぼそのルートに該当する.

明治35年1月23日6:50に屯営を出発.以後の状況は割愛することにして,3日後には210名の内,11名の生存者を残し,全員が疲労・飢餓を伴いながら凍死した.

生存率は5%.その内訳は階級に大きく依存し,将校クラスの17%に対し,兵卒は3%と顕著な差がみとめられる.この事件は,日本山岳史上の中でも最悪の遭難事件として後世に伝わることとなった.

R103 萱野茶屋
国道103号を萱野茶屋附近で東進し,県道40号に突き当たった場所にある慰霊碑.この高台からは第五連隊が迷走した駒込川・鳴沢渓谷と初日の目標地の田代温泉を望むことができる.

遭難現場と田代温泉はほんの目と鼻の先にあるものの,鳴沢渓谷からは三方を崖に阻まれ,クレパスの底から這い上がるに等しい隔たりは,第五連隊隊員にとって精神的距離は遠かったことであろう.

そのような中で思い出す『八甲田山死の彷徨』の小説の中でも有名な一節,

『「天はわれ等を見放した.こうなったらゆうべの露営地に引き返して先に死んだ連中と共に全員枕を並べて死のうではないか」

神田大尉が絶望と共に放った声は,折から吹雪がおさまって静かになった疎林の中で,隊員全部の胸を打った.』(新田次郎,八甲田山死の彷徨)


この中で,正しいことを一つ挙げるとするならば,1月22日から1月25日にかけて大寒波が日本中を覆い,青森観測所では24日〜25日の最低気温は零下12度と観測所史上最低気温となった.

参考までに北海道上川では25日に零下41度と石油が凍結したと言われているほどの異常低温となり,現在においも日本で観測された最低気温として記録は未だに破られていない.まさにその異常気象の中で行軍を実施してしまったことは「天はわれ等を見放した」ことになるだろう.

しかし,同じ場面を異なる形で記した談話が残されている.

八甲田山雪中行軍記念像
『演習中隊長殿も「とうてい前進は出来ない.このままで行っては凍死するよりほかはない.これは天が我々に軍の研究のために死んで行く命令である.ところで自分も前の露営地に戻って死ぬから,皆枕を並べて凍死しよう.」

こういう命令がありまして,全部士気は阻喪してどうにもならなくなりました.

止むを得ず又元の露営地に戻って,そこで露営することになりましたが,非常にこの中隊長の意見によって兵隊の皆なが士気が阻喪して,大分その晩に亡くなりました.』(談話,雪中行軍生存者 小原忠三郎元伍長)


この「談話」は新田次郎氏の小説の原本ともなった『吹雪の惨劇』の著者小笠原孤酒氏が,昭和43年に行軍生存者の小原忠三郎氏の証言を録音し冊子化したもので,八甲田山雪中行軍記念館・鹿鳴庵にて頂いた.

この証言は新田次郎氏の描く小説の世界とは全く異なり,極限状況における指揮官の粗末な一言が,その組織,その配下の人の命に重く影響することが小原元伍長によって伝えられたことになる.

遭難の原因に関しては,その後の新聞や論評にも多く取り上げられ枚挙に暇がない.時代を経てわかる高見からの酷評もあれば,現代にも共通する教訓とすべき人間の本質を衝く解析もなされている.

「とまれ,この遭難事件は日露戦争を前提として考えねば解決しがたいものであった.装備不良,指揮系統の混乱,未曾有の悪天候などの原因は必ずしも真相を衝くものではなく,やはり,日露戦争を前にして軍首脳部が考え出した,寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった.」(新田次郎,八甲田山死の彷徨)

人間実験という簡潔な表現も,小説の〆の記述としては的外れな表現のようにも思える.だた,組織の中で生活する以上は,現代においても形を変えただけの人間実験は繰り返されている.

【参考文献】
八甲田山死の彷徨 新田次郎,新潮社,1971
歩兵五連隊史 柴田弘,歩兵五連隊史跡保存会,1973
八甲田山連峰・吹雪の惨劇 小笠原孤酒,銅屋茶屋,1974
談話(雪中行軍生存者 小原忠三郎元伍長) 小笠原孤酒,八甲田山雪中行軍記念館,発行日不詳
八甲田山の変遷 岩淵功,八甲田山の変遷出版実行委員会,1999